二〇〇五年十一月三日午後七時十七分/在木 満
決意して部屋を出たはいいが、赤さんの姿が見当たらない。
リビングは昨夜のまま、ビールの空き缶やつまみの袋が、床にテーブルに散乱したまま。
少し警戒しながら部屋を訪ねたが、誰もいない。空っぽだった。
鞄や、サイドテーブルに残されたキーホルダーや財布が彼女が逃げ去ったわけではないことを暗に示していた。
二階の窓から、車の停めてある玄関先を確認したが、白いランドクルーザーの天井がちゃんと見えた。
まさかこの山奥、この雨の中を歩いて逃げることはないだろう。下手をしたら下の廃村に辿り着く前に遭難をしてしまうだろう。
他の部屋、白さんの部屋や空き部屋、トイレや台所まで全ての場所を見て回ったがもぬけの殻だった。
「なんで?」
この山荘の中には私しかいない。
かりかり。
知らず、腿のあたりを爪が引っかいていた。メモ帳が無いせいで落ち着かないという、昔からの癖だった。一度遠足かなにかで、メモ帳を落としたときはかなり深い傷を作っていたことがあったくらいだ。中度のADHD。
唇をかみ締め、必死で精神を落ち着かせる。
本当はメモ帳を握っているだけで良いのだが、いつ赤さんに会うとも分からない。そのとき、刺激したくはない。
私が我慢すればいいのだ。
少し、落ち着かない思考の中、「山荘内にいなければ、外にいる」という当たり前な答えを導き出す。
外は、雨。
私は自室の鞄から折り畳み傘を探し出し、勝手口へと向かった。玄関先に人がいないことは確認済みだったからだ。
降りしきる雨に、土の地面がぬかるんでいる。
べちょり、べちょりと靴底に土がつく感触が不快だった。
勝手口の辺りを歩き回り、つるはしやシャベルの横を歩いた。
誰もいない。
本当に誰もいなかった。
その事実に、苛立つ。
「いったい、どこにいったのよ!?」
うまくいかない。
腹立ち紛れに、土を蹴り飛ばすようにして湖へ向かう。
ここにいなければ、山の中だか森の中に神隠しにあったと考えるしかない。
………そうして。
私は
雨でたゆたう沼のような湖面に浮かぶ、
待って。
なに、あれ?
人形にも見えるが、もっと的確な答えを私は知っている。
私は無意識のうちに理解していた。
ふらふらと、覚束ない足で近づく。
湖岸からほんの一・五メートルほど。
そこに浮かんだ、死体。
仰向けのソレは、長い髪が海草のようにびっしりと這っていた。
………そう、
吐き気を催す。
何だ、コレ。
整合性が取れていない。
誰が赤さんを殺したんだ?
顔は判別できないけど、この死体から背格好から彼女であることに間違いない。自殺? こんな顔面をシャベルで何回も殴打されたような傷。自殺は不可能だ。じゃあ、誰? 私か? まさか。いくら精神科にいったことがあると言ったって、夢遊病患者ではない。私が殺したのと断言できるわけが無い。
じゃあ誰!?
誰、誰が殺したの!?
見たことも無い誰か?
いるの?
殺人鬼がいるの!??
私は恐怖に駆られ、腿を掻き毟る。スカートの生地が毛羽立つ。
傘さえ投げ出して、私は急いで走り出した。
自分の命を守るために、
自分の部屋へと走っていく。その最中———
ガタン。
物音がした。
玄関先のほうだ。
階段の手すりの隙間から、そちらを盗み見る。
「———、アリエナイ」
呟いてしまう。
全身が濡れそぼった人影。
全身を赤の装束で身を包んだ人影。
長い髪が柳のように顔を覆っている。
……赤マントだった。
…
二〇〇五年十一月三日午後八時二分/糸乃森 白雪
話したいことがある、と言って私は「月」ちゃんを呼び出した。
「月」ちゃんは、非常に警戒した視線をこちらに向けてきたが、一応話だけはきいてくれるらしい。ただ、条件として玄関から一歩も廊下に足を踏み入れないことを要求してきた。
盗みに入る美術館の警備員の敵意と比べるも愚かしい。普段だったら、私は笑みの一つでも浮かべて相手のガードを緩めさせただろうが、今はあえて可能な限り彼女を刺激しないように淡々と話を続ける。車の中で考えていた言葉のままに。
彼女は、話を聞きながら、右手で腿をがりがりと掻いていた。
てっきりメモをしながら、聞くと思っていたのに……
俯いた彼女の顔を窺い知ることはできない。
時折、私に聞こえないくらい小さな声で呟いていたのが、少し気になった。
私が人を殺してしまったこと。
私は危害を加えるつもりは無いこと。
なんなら私を拘束してしまってかまわないこと。
そうしたあれこれを三十分ほどかけて説明した。
「———と、いうわけなの」
「……………………………」
説明を終えても、「月」ちゃんは何の反応も無かった。
相変わらず視線は床の上。
まるで彫像のようだ。
「…………【月】ちゃ、」
「そんなの、信用できるかできるかっっ!!!!!!」
唐突に顔を上げ、信じられないくらい大きな声を上げて、私を一喝する。
「は、入れ替わり? 舞台? 魔女? 殺人鬼の言葉なんか信用できるわけ無いじゃない。やめてよ、キモチワルイ。何が危害を加えるつもりがないだ! そんな手に掛かるとでも思ったか、このバケモノがっっっっっっっっ!!!」
嘲弄するように。
糾弾するように。
言葉の暴力を、降り注がせる。
目は充血して真っ赤。唇は噛み切ったのか血が垂れている。
「死体のくせに、死者が生きてる人間に偉そうに口を利きやがって。ふざけるな。フザケルナ、巫山戯るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 死体なら、死体らしく墓の下だか地獄だか、血の沼だかに埋もれててよ、沈んでてよ!! 私が何かした? 信じられない、信じられない、人一人殺しておいてなんで平然としてられるの!? その神経も信じられなければ、話も信じられない。全部が全部、一切合切、かけらだって信じられないわよ!!! もぅイヤ! 嫌なんだってば、嫌いなの、厭なの、もういやぁぁぁぁぁぁあっぁぁぁ!!!」
叫びながら、私に背を向けて、廊下を走っていく。
そのまま階段を上って、バタンと個室の扉を閉め切った。
二、三分ほど私は様子を見ていたが、結局我慢できず、靴のまま扉の前に走りよった。
あの様子は尋常ではない。何かの間違いで自殺でもしたら危険だ。
彼女だけは、何があってもきちんと家に帰す。
私が裁かれるのは構わない。
でも、彼女だけは…………!
扉のノブを回すが、鍵を掛けているのかうんともすんともいわない。
扉を両の拳で叩く。
月ちゃん……!
…
二〇〇五年十一月三日午後八時四十七分/在木 満
メモ帳をポケットに捻り込む。
不意をついて鍵を開け、扉を押し開ける。
その勢いに、尻餅を搗くバケモノ。いい気味だ。
その上を踏み躙るようにして、走り抜ける。
武器は階下、勝手口横のシャベル。
小学校の徒競走だってこんなに早く走ったことは無い。
踏み躙った効果が思いの外、強かったのか階段を下りきっても、まだ動く気配は無い。
台所に飛び入り、飛び出す。
シャベルは本当に勝手口のすぐ横にあった。
握る。
まるで騎士にあつらえた剣のように、しっくりと手に馴染む。
柄が木のためか、女の私でも比較的軽く持ち上げられる。
壁の向こう側で、人の気配。
昨晩とはまるで立場が逆転している。
私は息を潜める。
扉が慌しく、開く。
振り上げられたシャベルは、断頭台の刃。
それを、
飛び込んできた影に向かって、
振り下ろす。
————————————ガッ、
…
二〇〇五年十一月三日午後八時五十九分/在木 満
魔女の死体を始末する。
今度こそ、蘇らないように。
顔面どころか、頭部全体がザクロのようになるまで叩き続けた。あるいは突き続けた。
脳が二つどころか、二十個ぐらいに分裂している。
これでは赤マントも、完全に死んだだろう。
もし大きな火があったら、死体を消し炭、灰の塊になるまで燃やしただろう。ソレができない以上もっと地獄の冥府に近いあの、不気味な沼に投げ込んでやる。
ずるずると、死体の襟首を掴み、雨の中を歩く。
ああ、重い。
早く事件のことを書きたい。
警察はどうしようか。
どうやって、この山を下りようか。
熱で熱くマグマのようにドロドロしていた思考は、雨の冷たさで冷却され、元のはっきりとしたものに戻ってく———、
「え?」
おかしいな。オカシイ。かしいな。勘違い……だ、よね……?
アレ? アレアレアレ? 変だな。変だよね、変だ。
目の錯覚だろうか。
私には、依然として水面に浮かんだ赤いモノが見える。
思わず手許にあるもう一つの赤いモノと見比べる。
二つ。
死体が二つ。
赤い服を着た死体が二つ。
よく似た背格好をした、赤い服の死体が、
二つ。
今度こそ、計算が合わない。
あれは誰?
白さんじゃない。あの人はもう少し痩せているし、髪は短い。長い髪が短くなることはあっても、その逆はありえない。
だから、あれは白さんじゃない。
赤マントの死体はここにある?
ああ、もしかして私——————、
まちがえちゃった?
そういえば、赤マントが、赤さんが何かを必死に伝えていた。
ほとんど、憶えていない。
でも、ああ……
赤く染まった視界。
沸騰した意識。
無音に近い世界の中で、彼女はこう言っていた。
『月ちゃん、死んじゃダメ! 家に帰れなくなっちゃうよ!?』
彼女の言葉は全て真実だったんだ。
ただ、私が臆病だったせいで、殺してしまった。
たとえ、彼女が人を殺してしまっても、私が彼女を赦してあげられたのに。
罪を赦してやれないことが、もっとも重い罪。
とおい昔、誰が言った言葉。
その意味を私は知った。
…
二〇〇五年十一月三日午後十時零分/在木 満
そこから先の記憶はひどく客観的だった。
雨の中、私は殺してしまった彼女の亡骸をできるだけ慎重に、優しく湖に沈めた。せめてこの姿が人目に触れないように。
幾百、幾千の謝罪を告げ、私は最後の罪を犯すことにした。
勝手口横にあった長いロープを湖岸に近く、太い樹の幹に巻きつける。
ソレをさらに枝へと伸ばす。
雨が強い。
もう一度だけ、謝る。
お父さん、お母さん。
こんな面倒な娘に手を掛け、一切の不満も不足もなく、十八年間育ててくれたことに感謝します。
だから、ごめんなさい。
私は、人を殺し、貴方たちより早く死ぬ最低の、親不孝者です。
お兄ちゃん。
タリお兄ちゃん。
毎日、偉そうにちゃんと仕事に就けと、言っていましたが、同時に探偵であることをこれ以上ないくらい自慢だと思っています。
だから、ごめんなさい。
私は、貴方が、もっとも憎む「犯人」の一人です。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
私は地獄に堕ちます。
一瞬の浮遊感覚。絞まる頸。視界の暗転。軋む縄目。
———垂れた首は、まるで湖に侘び続けるかのように———…
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